現在香川県を拠点に活動されている山本さん。今回はシングルマザーの団体freelyの主催で岐阜県各務原市で講演会が開催されました。
せっかくですので看たまでも、助産師として多くの子をとりあげてきた経験を活かし、現在全国各地でいのちの大切さを伝える講演をしている山本さんをご紹介。
トップ画像は、いのちの応援舎公式HPより。http://hinata-bokko.jp/yamamoto_prf/
幼い頃、病気で父を亡くした経験から
五歳のとき、病気で父親を亡くしたという山本さん。父の闘病生活の中で出会った看護師という職業に、憧れを抱いたと言います。そのまま地元の看護学校へ進学。助産師という仕事と出会ったのは、実習でした。
「実習で分娩の瞬間を見た、すごいと思った!」
22歳で助産師になった山本さんは、一回は都会に行きたい、という思いで銀座のど真ん中の病院に就職しました。日本で一番多く赤ちゃんが生まれる場所だったそうです。
その後結婚を経て子育てしながら、企業の系列の病院で25年間勤務した山本さん。
働くうち、産婦人科に来る高校生や中学生をみて思ったそうです。
「どうしてこうなるの?って。」
「親たちは何をしよんなら、、、先生たちは何しよんな、、、って。」
「結論的に始末をするのは産婦人科なんですよ。そんな中学生、高校生をみる度、一緒に泣いてあげることしかできない私は情けなかった。なんとかしなくちゃいけないって思っても、世の中は動かない。」
ここが山本さんが性教育の大切さを知った場所でした。
徐々に増えた講演の機会
ある時ひょんなことから参加したレクリエーションの研修会で、高校生二年生の男の子が山本さんに言いました。
「山本さん、助産師さんって何しとんの」
「この世の中に命をとりあげるのが私の仕事だよ」
「あんたのお母さんがどんなに頑張ったって、見える見えないはともかく、まずこの世に産まれて最初に見るのはこの人の顔だよって。こんなに素晴らしい仕事してるんだよ」
そんな話を終える頃には、周りには研修会に来ていた人全員が集まっていたそうです。
その研修会に参加していたとある高校の先生から、「山本さん、ぜひその話を高校でしてくれないか」という依頼がありました。そこから山本さんは徐々に講演をするようになったといいます。
「笑って欲しくないなあ」
性教育をするにはいいチャンス、と思って意気込んでいた山本さんを待っていたのは、必ずしもよい反応ばかりではありませんでした。
「なんで笑うの」「どうして下向くの」
ニヤニヤしたり、うつむいたり。そんな学生が大半でした。
「セックスという言葉を聞いて、どうして笑うのっていいたいけれど、笑いたくなるのね。あなたたちがここまで育つ中で、親が、先生が、大人たちが、セックスって素晴らしいよって、誰とでもするなよ、大事な人とするんだぞって、教えてくれた大人がいるか?」
この言葉から、当時からそんな大人がなかなかいなかったことが伺い知れます。
「セックスってどこで聞いた?週刊誌?アダルトビデオ?みんなコソコソ観てきてるから知ってる。」
「だけど、今日からは、セックスって誰とでもするもんじゃないんだよって知って欲しい。セックスはしないっていう人もいる。気持ちが悪いっていう人もいる。だけど。そんな人が一番危ない。
大好きな人を抱きしめたい、大好きな人に抱きしめられたい、大好きな人とセックスがしたいって、そう思える大人になってほしい。性行為をしない人生だめだとか言ってるんじゃない。
でもそうでないとこの世の中に命は生まれんて。」
これが山本さんの考えでした。
ある講演の後、こんな感想文があったそうです。
『山本さんが笑うなって言った時、あの時最初に笑ったのは僕でした。恥ずかしかった。お父さんとお母さんが性行為してなければ、僕たち生まれてないですもんね』
「…これが教育じゃないですか?どうしてきちっと教えないの?どうして大事って言わないの?」
「命をかけて産んだんだよって。泣いて喜んでくれたってことを、それを伝えるのが助産師の私の使命。」
講演をきく子ども達だって、家庭環境はさまざまです。
「お父さんが女作って出て行った?お母さんが男作って出てった?
毎日寝たら頭の上でお父さんとお母さんが喧嘩してる?確かにそんな親だったら、
『本当に二人は愛し合ったんだろうか』『本当に僕を欲しくて産んでくれたんだろうか』って思うよなあ。」
それでも山本さんは続けます。
「離婚がだめだと言ってるんじゃない。産んでくれたからここに居るんだろうがってことを私は言いたい。」
「父さんも母さんも他人なんだから。喧嘩することだって、別れることだってあらあ。
欲しくなきゃ親は産まん!私はこの手で、3000人余りの赤ちゃんを取り上げてきました。生まれてきたあなたたちに向かって、生まれてきてくれてありがとうって泣いたんだ。こんな子いらんかったわって言った親なんて一人もおらんかったわ。」
これが山本さんのいのちの講演でした。
1996年、はじめてNHKの全国放送。バッシングとの戦い
遂に、NHKで山本さんの活動にスポットライトがあたりました。講演では、学生をはじめとする多くの人の心を動かしてきた山本さん。ところがテレビではそうはいきませんでした。
「セックスはするなと教えろ」など反対の意見を持つ人からの、厳しい批判に晒されました。
暫くすると病院に対して、いたずら電話がかかるようになったと言います。
「今日は何件あったよって言われて、もう病院をやめるか講演をやめるかだと思った」
そんな時、NHKのディレクターさんがダンボールいっぱいの山本さん宛のお手紙を持ってきてくれました。また(バッシングの手紙)か・・・と思っていたら、段ボールの底に一枚の葉書が。
「『きみは命の応援団だね』って書いてありました。これに救われました。テレビ見たよって。添えられてました。」
「ならば私は命の応援団であり続けよう。赤ちゃんを取り上げる助産師は他にもいるけど、私の話は私にしかできない。」
そこから山本さんは突っ走りました。
山本さんの思い描く場所
ある時知り合いから助産院を建てないかという誘いがありました。
その後、ヘルパーの講習会に行った夫から、老人施設建てないか?という提案がありました。
「単純な私は助産院と老人移設をくっつけてNPOいのちの応援舎をつくりました」
「ゆりかごから墓場まで。どうして思ったかって?
昔の大家族がいいなあって思った。隣近所が助けてくれる時代だった。
赤ちゃんの泣き声、じいちゃんばあちゃんの笑い声、みんながワイワイできるようなのを頭に描いた。そんな施設があってもいいんじゃないかって。」
60歳を過ぎた山本さん夫婦にお金を貸してくれる銀行はありません。資金繰りには相当苦労したそうですが、いままでの活動で出会った仲間(ファン)の協力により、なんとか夢が形になったそうです。
利子は夢、と伝えて仲間から借りたお金も、今はすっかり返したそうです。
こうしてできた「NPOいのちの応援舎」はこちら→http://hinata-bokko.jp/
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